★日常★
忘れるな、ひめゆりの詩を・・・
はいたいぐすーよ ちゅーうがなびら
わんねー地域おこし協力隊ぬ まぁみぃやいびーん

平和の礎をウートートーして、ひめゆりの塔へ向かおうとしたら、先ほどの追悼式を行っていた広場で一般の人がお焼香ができるようになっていたので、また戻りお焼香をしてまいりました。
それから、ひめゆりの塔で行われている慰霊祭へ向かいました。
こちらもたくさんの参列者の方はいらっしゃいました。


-ひめゆり学徒隊-
ひめゆり学徒隊は負傷兵の看護のために沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範女子部の15~19歳の女子学生220人で結成されました。
なぜ「ひめゆり」なのかというと、沖縄県立第一高等女学校の学校広報誌の名前「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌の名前「白百合」を併せて「姫百合」呼ばれたそうです。
ほかにも白梅学徒隊・なごらん学徒隊・瑞泉学徒隊・積徳学徒隊・悌梧学徒隊・宮古高女学徒隊・八重山高女学徒隊・八重農学徒隊と、全部で8つの学徒隊が存在したそうです。
ある女子は一晩に80人の手足の切断手術を手伝ったといいます。
「壕ごうの中は地獄でした。薬を節約するため麻酔なしで(手足を)切断し、『殺せ、殺せ』と悲鳴が聞こえました」、「泣き叫ぶ負傷兵を毎日見ているうちに、かわいそうとも思わなくなった。」と話します。
222名の生徒のうち、123名が死亡。そのうち107名は解散命令後亡くなったそうです。

ひめゆり学徒隊の皆さんの歌を聴きました。
とても、きれいな歌声でこんなにきれいな歌声を持つ人たちが、想像がつかないような戦場を潜り抜けたのかと思うと胸が締め付けられました。
そして、歌い終わった後に、「今でも、夢に出てくることがあります。そして出てくる友達はみんな当時の少女のままで、歳をとっていないんです。一緒に歳をとりたかった。」と話しました。
私はそれを聞いて涙が止まりませんでした。
もし私が同じ境遇にあったら?この平和な世の中が変わってしまったら?自由に遊ぶことも、仕事を選ぶこともできず、恋愛もできない。
ただ、死と隣り合わせで生きていて、そんな恐怖の世界なのに家族とも離れて、友達は次々に亡くなっていったら・・・・。
私は、耐えられるのだろうか。と考えていたら気が遠くなりました。
もしかしたら、私は耐えられないかもしれません。生き抜くことができるのでしょうか。
そんなことを思いつつ、慰霊祭が終わったので私は、続いて大度で「平和集会」が行われていたので、そちらに向かいました。

講師の方は伊藤博文さんという方で、この方のおじい様の伊藤半次様のお話を聞かせてくださいました。
伊藤半次様は、沖縄戦で戦死した陸軍兵士だそうです。
旧満州の戦地などから、提灯職人として学んだ日本画の特技をいかして、家族へ400通もの便りを送ったそうです。
その後、沖縄へ転戦しましたが、沖縄から届いた手紙は3通。
所属していた野戦重砲兵23連隊(通称 球3109隊)は、本土防衛のため、32軍の1隊として首里攻防戦を戦い沖縄戦でほぼ全滅しました。
手紙の内容は、家族に心配をかけないように明るい内容だったそうです。
また、「みんなに会いたい」などの言葉は、手紙に書くことは許されていなかったそうで「私は私に会いたい」など隠した言葉で伝えたそうです。
家族の皆さんはどれだけこの手紙に支えられたことでしょう。
父親としての温かい愛情をとっても感じました。


6月23日は戦争・平和について考えた1日でした。
今の時代を生きている私たちでは想像もつかないような戦況を生き抜いてたご先祖様から受け継いできた命のバトン。
このバトンは決して粗末にしてはいけないし、同じことは繰り返してはならない。
しかし、72年経った現在。戦争を経験した方が減ってしまっています。
語りべが少なくなっていくなか、どうやって次世代に恐ろしさを伝えていくかがこれからの問題なのではないのでしょうか。
最後に、今回のタイトルも、MONGOL800さんの「himeyuri」という歌の歌詞をお借りしました。
とても素晴らしい歌なので、ぜひ聴いてみてください。

わんねー地域おこし協力隊ぬ まぁみぃやいびーん


平和の礎をウートートーして、ひめゆりの塔へ向かおうとしたら、先ほどの追悼式を行っていた広場で一般の人がお焼香ができるようになっていたので、また戻りお焼香をしてまいりました。
それから、ひめゆりの塔で行われている慰霊祭へ向かいました。
こちらもたくさんの参列者の方はいらっしゃいました。


-ひめゆり学徒隊-
ひめゆり学徒隊は負傷兵の看護のために沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範女子部の15~19歳の女子学生220人で結成されました。
なぜ「ひめゆり」なのかというと、沖縄県立第一高等女学校の学校広報誌の名前「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌の名前「白百合」を併せて「姫百合」呼ばれたそうです。
ほかにも白梅学徒隊・なごらん学徒隊・瑞泉学徒隊・積徳学徒隊・悌梧学徒隊・宮古高女学徒隊・八重山高女学徒隊・八重農学徒隊と、全部で8つの学徒隊が存在したそうです。
ある女子は一晩に80人の手足の切断手術を手伝ったといいます。
「壕ごうの中は地獄でした。薬を節約するため麻酔なしで(手足を)切断し、『殺せ、殺せ』と悲鳴が聞こえました」、「泣き叫ぶ負傷兵を毎日見ているうちに、かわいそうとも思わなくなった。」と話します。
222名の生徒のうち、123名が死亡。そのうち107名は解散命令後亡くなったそうです。

ひめゆり学徒隊の皆さんの歌を聴きました。
とても、きれいな歌声でこんなにきれいな歌声を持つ人たちが、想像がつかないような戦場を潜り抜けたのかと思うと胸が締め付けられました。
そして、歌い終わった後に、「今でも、夢に出てくることがあります。そして出てくる友達はみんな当時の少女のままで、歳をとっていないんです。一緒に歳をとりたかった。」と話しました。
私はそれを聞いて涙が止まりませんでした。
もし私が同じ境遇にあったら?この平和な世の中が変わってしまったら?自由に遊ぶことも、仕事を選ぶこともできず、恋愛もできない。
ただ、死と隣り合わせで生きていて、そんな恐怖の世界なのに家族とも離れて、友達は次々に亡くなっていったら・・・・。
私は、耐えられるのだろうか。と考えていたら気が遠くなりました。
もしかしたら、私は耐えられないかもしれません。生き抜くことができるのでしょうか。
そんなことを思いつつ、慰霊祭が終わったので私は、続いて大度で「平和集会」が行われていたので、そちらに向かいました。
講師の方は伊藤博文さんという方で、この方のおじい様の伊藤半次様のお話を聞かせてくださいました。
伊藤半次様は、沖縄戦で戦死した陸軍兵士だそうです。
旧満州の戦地などから、提灯職人として学んだ日本画の特技をいかして、家族へ400通もの便りを送ったそうです。
その後、沖縄へ転戦しましたが、沖縄から届いた手紙は3通。
所属していた野戦重砲兵23連隊(通称 球3109隊)は、本土防衛のため、32軍の1隊として首里攻防戦を戦い沖縄戦でほぼ全滅しました。
手紙の内容は、家族に心配をかけないように明るい内容だったそうです。
また、「みんなに会いたい」などの言葉は、手紙に書くことは許されていなかったそうで「私は私に会いたい」など隠した言葉で伝えたそうです。
家族の皆さんはどれだけこの手紙に支えられたことでしょう。
父親としての温かい愛情をとっても感じました。
6月23日は戦争・平和について考えた1日でした。
今の時代を生きている私たちでは想像もつかないような戦況を生き抜いてたご先祖様から受け継いできた命のバトン。
このバトンは決して粗末にしてはいけないし、同じことは繰り返してはならない。
しかし、72年経った現在。戦争を経験した方が減ってしまっています。
語りべが少なくなっていくなか、どうやって次世代に恐ろしさを伝えていくかがこれからの問題なのではないのでしょうか。
最後に、今回のタイトルも、MONGOL800さんの「himeyuri」という歌の歌詞をお借りしました。
とても素晴らしい歌なので、ぜひ聴いてみてください。
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